吉田満物語

  • 北見孝之
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第一話

2005年、はじめて喜一の熟成醤油ラーメンを食べたときだった。麺が太い、しかも幅広で不ぞろい。手打ちきしめんかと思わせるビジュアルだった。歯ごたえは予想通りで、麺の味わいは実感できた。スープもなかなかのできだったはずだが、なにせ麺の印象があまりに強烈でその風味は思い出せない。ずいぶん思い切ったもんだと、その心を聞いてみた。新しい店はスープの特徴だけじゃだめだ、麺も話題にならないと・・・。なるほど、口コミで広まるようにとのねらいがあった。特徴もマニアックな領域まで入りこむと、客数は限定される。食べ物に限らず、人気商売はここの加減が一番むずかしい。人口少なめの田舎町で、さてどのていど受け入れられるのだろうか。スープを最後まで飲みほしながら、そんなことを考えていた。

もっとうまいラーメンを、地道な試行錯誤は続いた。もっとていねいな接客を、反省点をほったらかしにはしなかった。顔なじみが増えてきた。喜一で特筆すべきは、スープのベースが中華というよりむしろ洋食系に近いこと。深まる方向や後味のゆくえが違った。うま味にまぎれ込んだ醤油はかすかな風味だけを残し、姿を消す。塩スープの塩、しかり。味噌スープの味噌、またしかり。こういう味のさばき方が、喜一のマスターの真骨頂である。なにも飛びでず、しっとりした余韻だけですべてが丸くおさまっている。これが多くのラーメンファンを魅了した。それと歩調を合わすかのように、麺の太さもおだやかに落ち着いていく。

ねこ

ここで、喜一のメニューの進化をたどってみる。2005年のオープン時は熟成醤 油ラーメンのみ、2年後(2007)かくあるべしと生まれたのが透き通るSioラーメン。「神髄はそのはかなさにある」とうまいこと言った常連がいる。その翌年塩スープに辛味噌をトッピングした赤魂(あかだま)を発売した。今でも数量限定の秘蔵っ子で、厚切り一本チャーシューが食欲をそそる。ここだけの話だが、味の裏ワザに酒粕が一枚かんでいる。さらにその2年後、満を持して味噌 ラーメンが登場した。衝撃的だった。どことなくレストランチックで、この辺ではだれも食べたことがない味、濃密なまろやかさ。味の裏ワザに会津地鶏だれが一枚かんでいる。どのメニューにも、生まれくるそれぞれの物語があった。だから風味が堂々としている。こんな店は多くない。実はこの途中に、喜一にとって大きなターニングポイントがあった。平成20年(2008)のことである。

裏磐梯の山の中で作られた塩が、その甘み具合の良さで世間の注目を集めてた。会津山塩である。これを使って「会津山塩のラーメンスープ」を作ろうと、平成20年にレシピの一般公募があった。喜一の味が満票を得た。今をときめく「会津山塩ラーメン」の誕生である。会津山塩企業組合で売り出した土産用山塩ラーメンが、首都圏で話題になった。喜一でも、ここから塩ラーメンの手ごたえが違った。会津では影がうすかった塩ラーメンがメジャーな存在になったのは、どうやらこのあたりからではないかと推測する。喜一では毎週火曜の曜日限定でメニューに載る。さらに塩つながりで平成25年には、新潟笹川流れの日本海で作られた「藻塩」に出会った。黄金色の海塩。上等な磯の香が独特の旨味になった。これもラーメンスープとしてラインナップ。「Sio」「会津山塩」「日本海藻塩」、喜一には塩味が三つある。こんな贅沢ほかにはない。

朝から満席になる日が増えてきた。願いは叶った。週末や休日は、午前10時にスープが底をつくこともある。すさまじいときは朝9時前に暖簾をしまう。入店できない人たちに、申し訳ないと心から思う。かといって仕込み量を増やしはしない。どんどん目が届かなくなるからだ。並んでまで食べてもらえる、そのありがたさをかみしめる。開店から5年、ようやく繁盛店と呼ばれる場所までたどり着いた。ここが終点じゃない。やがて喜一は新しいステージを求めることになる。

ねこ

吉田満(喜一社長、旧知からはマスターと呼ばれる)は、昭和26年5月に4人兄弟の末っ子として喜多方の地主の家に生まれる。当時の土地屋敷は残っていない。唯一四代前の「吉田喜一郎」が開業した医院が、信愛幼稚園に引き継がれ今もその名残をとどめている。高校卒業後、尾張名古屋の有名家電メーカーに就職した。それもつかの間、一ヶ月で辞表を出す。勝手放題の先輩たちに愛想が尽き、やってられるかと東京に流れる。姉婿が店長のハンバーガーチェーン店を手伝い、その勢いでステーキハウスにも顔を出し、銀座、赤坂、渋谷、六本木とその縄張りを広げた。味の世界、客商売の面白さにぐんぐん引きこまれていった。東京で暮らした18歳からの5年間が、その後の人生に決定的な影響を与えた。

猪苗代に新規オープンするホテルに就職するため、23歳で帰郷。ここで才能の花が咲いた。厨房もホールも、飲みこみのよさと機転の早さで各部門のトップに登りつめる。そして取締役支配人に。そんなことよりさらに重大なのが、留利子(喜一専務、旧知からはママと呼ばれる)との出逢いと結婚である。吉田満26歳、留利子21歳。満はのちにこう語っている。「独立してからの味の手本は、すべて女房が作ってくれた料理だった」。それほど留利子の料理は、いっけん気どりのない家庭的なものだったが、味も手際も心にしみるものだった。そしてそれこそが、料理人にとって不可欠な要素なのだと教えられた。30歳を機に、会津若松に洋食屋をオープンした。

順風満帆がそこは試練、大病を患ったり、不良物件をつかんだり、気まぐれなバブルの乱高下にほんろうされ一時はすべてを失いかけた。45歳になっていた。裸一貫で鉢巻をしめ直す。このまま終わるわけにはいかないのだ。まだ守るべきものがあった。守るべき人がいた。知人の会社を手伝いながら、雇われの身

で一軒のラーメン店を切り盛りした。自由な裁量で一切を任された。ラーメン作りは初心者じゃなく、すでに洋食屋時代一つの完成形を作っていた。コースの締めに出した醤油ラーメン、評判は上々だった。畑違いの好奇心、洋食屋のラーメン、それが数十年後に大輪の花を咲かせると誰が予見できただろうか。地道な努力、失わなかった信用が、一つずつ課題を消していく。味もめどが立った。吉田満、54歳にして「喜一」開業。決して若くない再出発だった。

焦りがなかったと言えばうそになる。急ぎたくとも近道はなかった。同じようでも、少しずつ違う日々が流れた。壁は越えられると信じ、昨日を今日の土台にした。開店から8年の月日が流れ平成25年(2013)。とうに還暦も過ぎ、体のあちこちガタがきたのも承知で最後の勝負。日本庭園の木立につつまれた新店を10月にオープン。四季が窓枠の中で絵になる。風が見える。まるで老舗料理屋のような、静かなたたずまいである。夢が夢を呼び起こし、一国一城が完成した。気どるわけじゃないが、趣あるラーメン屋があっていい。大切な人と行きたいラーメン屋があっていい。これが最高の馳走だと、胸をはるラーメン屋があっていい。こんな風になりたかった男がその思いをついに実現した。奇跡である。他にこんな男を寡聞にして知らない。今という時が彼を必要とした。ちょっと違う何かを探してた人たちが彼を認めた。報われる努力があることをマスターは証明した。

男一人の力なぞたかが知れている。わかったつもりで間違いをしでかす。御しがたい己を知れば知るほど、何があってもついてきてくれた留利子に頭を下げずにはいられない。女房孝行がこれからの自分の役目だという。休みの朝は外食をする。週に一度、朝の炊事から女房殿を自由にするためだ。様々な出会い、幸運との巡り合せ、労をいとわぬ取引先の面々、そして常連の笑い声。努力もしたが、いつも何かに助けられてここまできた。それがいま痛いほどわかる。恩返しの心で、「感謝の一杯」と暖簾を染め抜く。

吉田満

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