吉田喜一郎物語

店名の由来

野口英世とライバルだった吉田喜一郎

吉田満(喜一店主)の曽祖父「喜一郎」は、医者を目指し会津若松の「会陽医院」に書生として住み込んでいた。明治中ごろの話である。同室が後に医聖と呼ばれた野口英世であった。優秀さにおいて一目置かれた喜一郎と英世は、大部屋ではなく二人で一室を与えられたのである。寝る間も惜しんで勉学にいそしんだことは、伝説ともなっている。やがて二人はそれぞれの道を歩む。内務省医術開業試験に合格後、喜一郎は留学を経て軍医となり、海軍軍医大尉として日露戦争にも出征した。退官後は東京の病院に勤務。やがて故郷の喜多方に戻り、吉田医院を開業した。こうと決めたら一心に努力を惜しまなかった「喜一郎」にあやかり、店名を「喜一」といたしました。

書生時代

左から野口英世、吉田喜一郎、秋山義次。秋山は県会議員を経て千里村(現猪苗代町)の村長となる。

書生時代
会陽医院外観

会陽医院

現在は、喫茶店「會津壱番館」として会津若松の野口英世青春通りに残る。二階は英世の遺品を展示した「英世青春館」になっている。